ブルガリアからフランスまでのおよそ4000kmを走破するトランスコンチネンタルレースで完走した忠鉢さんにお話しをお聞きしました。#TCRNo7cap105
超長距離『トランスコンチネンタルレース』を日本人初走破!忠鉢信一さん完走インタビューVol.1はこちら>
―気温40度近くの猛暑から5度近くまで下がる標高2000メートル以上の峠越えまで、どんなウェアで乗り切ったのですか?
ジャージは半袖のアソスMille GT SS Jersey(蛍光オレンジ)を基本的に毎日着ました。一日だけ猛暑に対応するためノースリーブのアソスMille GT NS Jerseyを使いました。蛍光色のジャージを義務づけられていたので、わざわざこのルーズフィットの半袖ジャージを購入しましたが、ほとんど選手が日中も普通のジャージ+反射ベスト/タスキで走っていました。日本のブルベと違い、反射材のついたベスト等を着なければならないのは日没後だけ。レースの主催者からは、日中は反射材が安全面でまったく機能しないので、蛍光色のジャージを着るようにという指示が出ていました。
ベースレイヤーもアソスで、Skinfoil LS spring/Fall, Skinfoil SS spring, Skinfoil SS summerを持って行きました。実際は春物の半袖だけでも対応できたので、3種類も持っていたのは重量増につながった反省点です。長袖のベースレイヤーがなくても、スリーブ、ウィンドジャケット、レインジャケットの3層重ねを使えば摂氏5度あたりまでは十分に対応できました。夏用のメッシュのベースレイヤーはほとんど使わず、猛暑にはベースレイヤーなしで対応しました。
ビブショーツはアソスCampionissimo。パリ・ブレスト・パリやロンドン・エジンバラ・ロンドンで使ったアソスCentoは、衝撃吸収力が高いルーベでは必要ありませんでした。ただ途中でCampionissimoが破れてしまったので、予備としてCentoを持って行ったことが功を奏しました。
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雨への備えはテントなどと同じアウトドアギア用の防水加工を施したいずれもアソスのEquipe RSとRS Sturmprinze evo Rain Pants。防水加工が利いたこともありこの選択は完璧でした。風よけと防寒時のミドルレイヤーとしてアソスのMille GT Wind Jacket。細かい温度の変化に対応するためにアソスのTrail Knee Protectorsも便利でした。
こだわりの部分は空力面で効果がある、Rule28のAero gloves, Aero socks, Aero mitts, Aero sleevesの3点セット。紫外線カットの機能があって空気を通さないので、日差し対策や雨風をしのぐ意味でも有効でした。
―夜間走行はできるだけ避けるという戦略だったと思いますが、ライトはなにを選びましたか。
ライトはCateyeのボルト400xcを2個、ラピッドマイクロオートを2個使いました。高緯度のヨーロッパでは明るくなるのが午前5時、暗くなるのが午後10時ごろ。ライトを使って走る時間は短いと判断して、ライトは軽装にしました。この判断はよかったと思います。ただ途中でモバイルバッテリーが雨に濡れたためか使用不可能になってしまい、レース後半は電源を常に心配しながら走らなくてはならなくなり、一日2度の充電休憩を強いられました。
―チェーンなどの部品交換の頻度について教えてください。
チェーンは2000キロが寿命というお話を聞いていたんですが、4000キロに備えてチェーンを2本持って行くと、スタート時の装備はゴールまで持って行かないといけないというルールのために、重量増が大きな負担になってしまいます。どうしてそういうルールがあるかというと、完走するのに必要だと思って持って行った装備を、途中で捨ててもよければ、レース終盤はバッグもスペアも捨てて装備を軽量化できてしまいます。郵便などで送ったり、だれかに預けたりすれば、第三者の支援を受けたことになり失格。機材を捨てることを許すと、機材をいくらでも購入できる資金力の勝負になってしまいます。自分の力だけで完走するという揺るぎないレースのコンセプトがあって、私はそれがTCRの魅力だと思います。多くの人がこの魅力に引きつけられていて、TCRと同じルールのレースが欧米で次々と生まれています。
チェーンに話を戻すと、軽量化を優先させて、一本のチェーンで4000キロを走りきることにしました。チェーンオイルはブルーノーを毎日1〜2回継ぎ足していきました。余裕がある夜には100ミリリットルのプラスチックボトルに小分けしたパークツールのチェーン洗浄液と歯ブラシを使ってできるだけきれいに掃除しました。それでも終盤はチェーンの伸びと汚れでフロントの変速性能がものすごく悪くなりました。チェーンがインナーからアウターに乗ってくれなくなってしまったのですが、アウターに乗ってくれない状態のまま、リアをトップまであげていくと途中でアウターに乗ってくれるという方法を編みだし、終盤を乗り切りました。
スラムレッドAXSのバッテリーは予備を一つ持っていきました。必要な充電時間が短いので、寝ている間に充電すれば十分でした。でも前述の通り、途中でモバイルバッテリーが使えなくなり、GPSや電話等の充電を優先させると空いているUSBチャージャーが一口しか残りませんでした。ライトを充電するか、AXSのバッテリーを充電するかの判断が、完走できるかどうかのかけみたいなものになり、さすがにライトなしでは夜間走行がまったくできなくなってしまうので、AXSが犠牲になりました。一度、リアが動かなくなったのですが、そのときはしばらく2段変速で乗り切ってから、勾配にさしかかったところで前後のバッテリーを入れ替えて12段変速で走行。充電休憩でAXSを充電して、24段体制になんとか戻しました。ただAXSのバッテリーで苦労したのは一度だけ。モバイルバッテリーさえちゃんと働いてくれれば問題ありませんでした。
―チェックポイントやパルクール(規定ルート)を結ぶルートはご自身で選択したわけですが、実際のルートはいかがでしたか?
フランスの中央山塊を横断しているとき、ブドウ畑を抜ける日本で言えば市道、町道にあたるDロードをよく走りました。地図上では何度もチェックしてあって、メインのルートより近道だったんです。でも、地図上では目立たない短い区間が、ものすごい急勾配だったり、グラベルだったりして、こんなはずじゃなかったのに、とがっかりしました。
今回のレースでは、パルクール(規定ルート)の中にセルビア最高峰への登山道があったり、イタリアのブドウ畑の中の30%近い農道(舗装路)があったりして、そうした区間が一番きつかったという選手がほとんどでしたが、僕は自分で引いたルートの中に、それよりひどい最悪のグラベル急勾配があって、自転車を押して歩くしかありませんでした。
ブルガリアのソフィアを避けるルートも自分で選択したんですが、いわゆるスラム街の中を通ってしまい、道路が完全に崩壊しているところがありました。そこはなんとか走り抜けたのですが、その先の高速道路に並行する作業道路みたいなところは、アスファルトが不規則にはがされていました。むしろグラベルにしてもらいたいと思うくらい危ない区間でした。以前仕事でセルビアに行ったとき、アスファルトをはがして盗む泥棒がいる、という話を聞いたことも思い出しました。
―機材や天候の問題、4000qの行程ではどのようなトラブルがありましたか? どのようにそのトラブルを対処したのでしょうか? また予定の行程から遅れるという精神的な焦りをどのように解消されましたか?
トラブルで「焦る」ということは経験が足りない証拠ですね(笑)。
機材でも体でも、思い通りに動いてくれないことがありますが、まずゴールするにはどうすればいいのか、と考えます。そして余裕があったら、できるだけ速くゴールにたどりつくにはどうすればいいか、という選択をします。「焦る」という対応は、そのどちらにもつながりません。
もちろんトラブルに対してストレスは感じます。でも、ブルベでもTCRでも、スタートしたら時間は止まってくれません。その「レースタイム」をどう使うかをシビアに考えなければなりません。トラブルによるストレスや「焦り」は問題解決を遅らせてしまい、トラブルを大きくしてしまいます。その結果、大事な時間を大きくロスしてしまうという結果につながっていきます。
トラブルで本当に困ることは、トラブルそのものよりも、トラブルに直面した自分の行動なんです。日常のブルベや、パリ・ブレスト・パリ、ロンドン・エジンバラ・ロンドンなどの長距離ライドの経験で磨かれるのは、そういうところだと思います。
でも今回でいえば、イタリアのパッソ・ガルデナから下っていったボルツァーノあたりから、オーストリア国境のティメルスヨッホまで登っていく区間で、体調が悪くなった中でリアのディスクブレーキの調子も悪くなり、このときには冷静な対応ができませんでした。
ディスクブレーキの異音に気づいて対応したのですが、ローターのゆがみのチェックをしても問題なし。ブレーキパッドの偏りをチェックしても問題なし。それでも念のため調整してから再スタートすると、しばらくして異音が戻り、やがて抵抗を感じるようになる、という繰り返し。どうしても原因がわからず、こんな状態でティメルスヨッホは越えられないと悲観して、レースを投げ出したい気持ちになりました。
こんな状態では良い考えは浮かびません。そこでまずは体調を戻そうと考えました。大自然の中に窪地を見つけて用を済ませてデトックスしました。そしてちょっとした木陰をみつけて10分ほど眠りました。それで体は楽になっていく兆しを感じられたのですが、再スタートするとまた異音。ただそのときは気持ちに少し余裕ができて、時間がかかってもちゃんと走れるようにした方がいいと考えました。バイクを逆さまに立てて、サドルバックも外して、ブレーキパッドをチェックすることにしました。バイクを逆さまにしたことで、モバイルバッテリーと一緒にトップチューブバッグに入れてあったナッツとドライフルーツが全部こぼれてしまったんですが、気持ちが落ち着いていたので冷静でした。
そうしている間に結構な人数に抜かれてしまったのですが、中には「まだ先は長いよ」とか「今日の天気ならたくさん走れるよ」とか、ポジティブでちょっと笑えるような言葉をかけてくれる選手がいました。僕は「だれだってトラブルはあるだろうけど、みんなあきらめずに走ってるじゃないか」と思えて、気持ちが大きく切り替わりました。
よしがんばるぞと走り出した直後、またも異音がひどくなりました。もう直すことはあきらめて、ブレーキパッドを全部取り換えることにしました。そうなんです。はじめからそうしたらよかったんです。ところがそれに気づかない。直そうとして焦る。そして一番簡単な答えに気づかない。でも、気持ちに余裕さえあれば、シンプルな答えを見つけられます。
ブレーキパッドの交換は、数分で終えることができました。そこからティメルスヨッホのトンネル(標高2474メートル)を目指しました。
トンネル手前のゲートが午後8時に閉まるという情報があったので、時間のロスは気になっていました。トンネルまで約30キロの峠道の分岐点を午後5時ごろ通過。最高地点との標高差は約1500メートルで、僕の登坂力は1時間あたりの獲得標高で600メートルは余裕を持って上れるので、計算上はなんとかなるはずの登りです。でも、序盤に30%前後の激坂が何度も登場したり、比較的平坦なトンネル区間を抜けると巨大な壁のようなつづら折り区間がドカンと出てきたり、視覚的に心が削られる場面がありました。ただ、「みんなあきらめずに走ってる」という気持ちが体中に浸透している感じで、おしりの筋肉が焼けて千切れていくような感覚になっても、力を緩めて楽になろうとは思いませんでした。あきらめないとか、力を出し切るって、頭が心や体をコントロールする感じがする表現ですが、あのときの感覚は、心が勝手に体を動かしていて、頭の方は「まだいけるんだ」と驚いて喜んでいる感じ。自分がなにかの一部になっている感じ。僕がTCRの一部になって、このTCRという大きな存在のエネルギーを感じながら走っていました。
今回のレースの中で最悪の状態から、最高の状態を見いだせたわけですから、本当に不思議な体験でした。そしてこの日を境に、どういうわけかものすごく自信がつきました。
―総合上位入賞を目標にトラブルや厳しい天候を乗り越えられるように入念な準備をされていたと思います。うまくいったこと、いかなかったことを教えてください。
レース後にほかの選手と答え合わせをして、自分のレースプランというか、考え方は間違ってなかったと思いました。TCRで大事なのは、巡航時速30キロ以上を保てる脚力と心肺能力、適度な登坂力、停車時間を減らす工夫、睡眠と乗車時間のバランス、ウェアの選び方、ライトの選び方、機材のファインチューニング、ルートの選び方などです。でも、それぞれの細かいところに上位との差がありました。
行けるところまで行って野宿する、という戦略は以前の僕にとっては無計画と同じでした。でもTCRを走ってみて、野宿という選択肢がないと自転車を止める場所と時間の選択が狭まり、結果として大きなタイムロスになることがわかりました。
ウェアは組み合わせや省略を工夫すれば、もっと少なくできました。
ハブダイナモによる給電は、ホイールの手組みを注文していた自転車店がリムブレーキ仕様とディスクブレーキ仕様を間違えるというミスをしたせいで、あきらめざるをえなかったのですが、ハブダイナモとモバイルバッテリーの重量と給電量を比較して、モバイルバッテリーの方が勝るという理屈で自分を納得させていました。でも走ってみると、ハブダイナモとモバイルバッテリーの両方を使うのが一番確実で現実的でした。モバイルバッテリーもハブダイナモも100%確実ではありませんが、両方を備えておけば、充電休憩を強いられるような大きな時間ロスはより確実に避けられます。
雨でも走れるようにウェアも機材も準備したつもりでしたが、それでも走れない雹(ひょう)や雷がありました。荒れた舗装路、大型トレーラーの往来、そこに夜間走行と雨が重なったDay3で、私は安全策をとって走行距離を予定より80キロほど縮めました。今から思えばたぶん、その必要はなかったと思うのですが、弱気になってしまいました。ここでも寝袋を持って行かなかったことも影響していました。「行けるところまで行ってみよう」という大胆な策をとれませんでした。
レースの終盤でも、最後の夜の睡眠をカットするかどうかで迷いました。午後10時の段階でゴールまで160キロ。走り続ければ10位くらい順位を上げられそうでした。でもGPSやライトの電源が切れるリスクや、夜間走行や眠気でスピードが落ちること、野宿を強いられたときのダメージを考えると、逆にトラブルで順位を下げる可能性もあると判断し、4年前のパリ・ブレスト・パリで宿泊したことがあったルディアックという町で宿泊しました。
私に夜通し走り続けた経験がもっとあれば、そのまま走り続ける選択をしたかもしれません。走り続けても連続走行距離が600キロに満たなかったので、普段のブルベの600キロで練習することができました。でもその練習をしたことは、一度もありませんでした。必要だと思ったことがなかったからです。これからはブルベの600キロの走り方もTCRを意識して変えていくと思います。
―1日のTSS600を超えても体が慣れてしまったとのコメントがフェイスブックにありました。毎日リカバリーで気を付けていたことなどはありますか?(以前のブログでシャワーとベッドのリカバリー効果は大きいと伺っていました。)また、体が極限状態だったと思いますが、睡眠はとれていましたか?
レース中はここ数年で一番体調がよかったんじゃないでしょうか。パワーメーターの数値を使って走っていたことと、パワーメーターの数値と自分の疲労感やその後の回復の具合を練習で知っていたことが、余分な疲労を残さずに連日走り続けられた要因だと思います。逆に極限状態まで力を出し切った状態でゴールできなかったということは反省材料です。レースですから、力を出し切ってゴールすることはすごく大切です。それができなかったのは前述の通り、オーバーナイトの経験とスキルが足りなかったことが原因です。
―今年のツール・ド・フランスは史上最も標高の高いツールと評され、そのクイーンステージ(Stage18)にガリビエ峠が登場。キンタナがこの峠でアタックして見事な独走勝利を飾りました。ガリビエ峠やアルプ・デュエズに挑むにあたり、どのような予習をされましたか?また高地トレーニングも行いましたか?
ガリビエ峠はビデオでコースの予習をしました。私は高地に弱い方なんですが、ガリビエに至る前に2000メートル以上の峠が序盤からあって徐々に慣れていきました。ただいきなり登ったとしたら、標高2000メートルを越えてから標高2642メートルの最高地点まで8キロくらい登り、20%くらいの急傾斜もあるので、かなりダメージがあったかもしれません。
アルプ・ディエズは裏からグラベルを登って、有名な「アルプ・デュエズ」は真っ暗な中で下っただけなのであまり実感がありません(笑)。グラベル区間をちょうど一緒になった4人で登ったんですが、この4人で仲良くなれたことが本当にいい思い出です。「アルプ・デュエズ」を下ったところにあったチェックポイント「ホテル・ド・ミラン」では、ホテルのオーナーのご厚意で深夜にスパゲティー・ボロネーズを食べさせてもらいました。4人で一日を振り返ったり、苦労話をシェアしたりしてよく笑いました。
―以前Vol2のインタビューで一人だけど孤独ではない、とコメントされていましたね。逆に孤独を感じる場面はありませんでしたか。
パンクのたびに僕はスペシャライズド・ジャパンの担当者のことを思い出していました。その担当者は私のわがままな相談に対応してくださった、いわば私のTCR完走の恩人なんですけど、パンクのたびに「このチューブレスタイヤ勧められたよな」「あんなに話し合ったのに、全然わかってなかったな」と思っていました(笑)。そういうときにものすごい孤独感がありました。リアブレーキがおかしくなったときも、フロントディレイラーが調子悪くなったときも、AXSの電池が切れたときも、「だれもわかってくれてなかったんだな」と、孤独に浸りました。でも、順調なときや、トラブルをだれのせいにもできないときには、孤独なんて感じないんですよ。
周りの人が、自分に都合よく動いてくれないと勝手に思って、だれも自分をわかってくれない、孤独だな、と思うんですよね。そこに気づいて、孤独ってすごくわがままな気持ちなんだなって思いました。だれにも頼っていない自立した人間は、孤独なんて感じないんですよ。
―美しいヨーロッパの風景を楽しむ時間は限られていたと思います。心に残った風景はありますか?
フルカ峠ですね。素晴らしい景色でした。チューリヒから来ていた男女3人のグループと一緒になって、そうのうちの一人のヴァレリーという女性が結構登りに強かったので、二人で並んで登りました。僕がTCRのことを話すと、ヴァレリーもTCRのことは知っていて、いろいろな質問をされました。その自転車は全部で何キロなのかとか、夜はどこで寝るのかとか。ここはコースなのか、自分で選んだのかとか。僕はフルカ峠を通るルートを自分で選んだけれど、ほかの選手はイタリアやチューリヒ近くの遠回りだけど平らなルートを選んでいるみたいだよと教えると、「こんなきれいな景色をわざわざ避けるなんて間違っている」と言って一緒に笑ってくれました。
みんなが「なにもなくて眠くなった」と言っていたクロアチアの大草原と果てしない畑も、午後6時を過ぎの、からっとした気持ちのいい時間帯になると、サイクリングをしなくてはいられなくなるような最高の場所になりました。
フランスを走っていた14日目の夕方、森の中の名もない道路なんですが、緑の光のトンネルの中を抜けていくのがとても気持ちよかったです。残念だったのは、ガルデナ峠やガリビエ峠やティメルスヨッホの下りをビデオで撮影できなかったことです。地球じゃないって言われたら信じるかもしれないくらいの豪快な景色でした。普通のサイクリングでまた訪れたいです。
―レースを経験してみて、得られた経験値などが、仕事やプライベートに与える影響はありますか?
きっとあると思いますが、今はまだ実感がありません。
―またTCR出場したいですか?忠鉢さんの次なる目標は?
もちろん。できれば来年も出場してトップ10を実現したいです。それが来年でなくても、トップ10を実現することを目指して経験を積んでいくつもりです。
―最後に、4000qを走破した忠鉢さんだからこそわかる自転車の魅力を教えてください。
自転車は地球をじかに感じられるスポーツです。自分を知る機会にもなります。とても自由で、ゴールも、ゴールへのルートも、無限にあります。人間はよくこんな道具を発明したもんだなと、思っています。
―ありがとうございました。
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【忠鉢 信一さんプロフィール】
横浜市出身。中学生でサッカー16歳以下日本代表に。国体少年の部で優勝。筑波大学では井原正巳、中山雅史さんとプレー。2013年のホノルルセンチュリーライドをきっかけに自転車をはじめる。2015年にパリ〜ブレスト〜パリ、2017年にロンドン〜エジンバラ〜ロンドンを完走。
忠鉢信一さんの活動についてはこちらのFBよりご覧いただけます。ぜひフォロー&チェックしてください。
今までの記事はこちらからご覧いただけます。
超長距離レーストランスコンチネンタルレースでTOP10を目指す忠鉢信一さんにインタビュー Vol1>
超長距離レーストランスコンチネンタルレースでTOP10を目指す忠鉢信一さんにインタビュー Vol2>
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